ヨーロッパ横断紀行
ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜 太田 宏
02・・その1−ポーランド1(クラクフからウッチ到着まで 2015/5/12-5/25)
【1.2015.5.12(火) Kraków(クラクフ)-5.15】
【2.5.15(金) Kraków(クラクフ)→Łączany(ウォンツァニ)】
【3.5.16(土) Łączany(ウォンツァニ)→Oświęcim(オシフエンチム)-5/17(日) 】
【4.5/18(月) Oświęcim(オシフエンチム)からKatowice(カトヴィツエ)へ 】
【5.5/19(火) Katowice(カトヴィツエ)からZendek(ジエンデク) 】
【6.5/20(水) Zendek(ジェンデク)からCzęstochowa(チェンストホヴァ) -5/21(木)】
【7.5/22(金) Częstochowa(チェンストホヴァ)からGidle(ギドレ) 】
【8.5/23(土) Gidle(ギドレ)からKamieńsk(カミエンスク) 】
【9.5/24(日) Kamieńsk(カミエンスク)からDrużbice(ドルジビツエ)へ】
【10.5/25(月) Drużbice(ドルジビツエ)からŁodź(ウッチ) 】
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【1.2015.5.12 Kraków(クラクフ)-5.15】
5/12 am11:00 すでにクラクフ市内。空港から市街地に入る路線バスに乗った。4złズオティで160円ほど。とてもやすい。シムフリーカードは1GBで5ズオティ200円。信じられない。嬉しくなってさっそく家族に写真付きのLineで到着報告。早速市内観光。スケッチポイント満載の世界遺産の古都である。5秒毎に絵の風景が現れる。夕刻8:00から教会で開催されるコンサートを聴きにいった。Violaがよく響き心地よい。
曲目はcanon vivaldi concerto in A-minor 、Holberg
suite 、Mozart divertimento 1 、Chopan
Mazuruka op6 no 1、 Vivaldi spring from the 4 seasons。
Kraków(クラクフ)_1
ポーランドの旧首都クラクフは「観光」という玉手箱をひっくり返したような町である。こんな楽しい町を見たことがない。
幼稚園児たちが揃いのユニホームを着て遠足をしている。
あらゆる年代の生徒たちがこの町を集団で訪れ歴史遺産を熱心に勉強しているのだ。
街角は観光客で溢れかえっている。猫と馬車にお別れ。
Kraków(クラクフ)_2
クラクフのスペイン関連の本屋でついにポーランドのCamino-bookを発見。
四方からここクラクフに至る道やSpołaへの道などポーランドに閉じた道ながらcaminoマークがあった。
一つは「Matopolska Draga św Jakuba」ISBN・・・978-83-936182-1-7
別のは「Przewonik」(:ガイド)www.pielgrzymkaindywiduolna.pl(間違っているかも知れないーー何せ全部立ち読みなので)今回ばかりはバス。
Rynek Głowny(中央市場広場)
Sukiennice(織物会館)のお土産屋
早くもグダンスクの琥珀が並ぶ。
Rynek Głowny(中央市場広場)の馬車
御者は男女2人のことも多く颯爽して格好がよい。
ポーランド・クラクフ雑感
とにかく日本人が珍しいというか、日本人と話したくてしょうがないという子供達、人々が多い。はにかみながらも「こんにちは」と話しかけられた時にはうれしくなる。
クラクフ到着後1時間・・
ここで忘れ物1号! 「黒い小銭入れ」を入国から1時間もしないうちに落としている。小銭は大した金額で無いのが、simカード挿入のための「特性のピン」が無くなった。これはその後苦労するハメに。どこを探しても「針:lgła」が無かったからである。8日後に到着するチェンストホヴァ(Częstochowa)の町のVodafoneショップで手に入れるまではsim交換が出来なかったものである。
因みにこの旅で失くしたものは数多くあれど、このピン(5/12)に続いて、タオル(6/8)、リュック(7/20)、ヘッドランプ(8/5・・これは後ででてきた。ポンチョのポケットに入っていたのを帰国後1ヶ月くらいたってから発見した)、サングラス(8/7)がなくなっている。最後の2つは旅の最終段階での紛失でありあまり大きな影響はない。タオルは困った。日本製のような薄いタオルがどこにも置いていないのである。
さて、クラクフは戦災を免れた都市で、色濃く”ポーランドらしさ”を残している。まず建物がすべて末広がりの袴を履いているのである。一階部分が道路にせり出している。建物の安定のためかと思うがなかなか面白い。クラクフの旧都市は城郭に囲まれた涙形の都市の形をしていたが今は城郭が取り除かれ緑の帯となって市内を取り囲んでいる。最初は丘陵のように感じたのであるが、これが扁平。高低差無しの真っ平な都市であったのには驚いた。
南西角にあるZamek Królewski na Wawelu(ヴァヴェル城)でやっと丘となり、Wisła(ビスワ川)が眼下に望めると言う感じで。最初の想像と大きく異なった。これがポーランドという平坦な国での第一印象である。
Katedra Wawelska(ヴァヴェル城大聖堂)
クラクフがポーランド王国の首都だった時代(1386-1572)を含めて
18世紀まで国王の戴冠式が行われたのがこの大聖堂。
なんとも複雑な外観である。
1320年にゴシック様式で着工されて以来数世紀にわたって増築を重ねた。
ルネッサンス様式とバロック様式が加えられている。
中央手前の金色のドームはKaplica
Zygmuntowska(ジグムント チャペル)で
ルネッサンス建築の傑作と言われている。
中央大屋根の奥にあるWieza
Zygmuntowska(ジグムント塔)には
ポーランド最大の鐘が吊るされている。
中心街は”観光”という玉手箱をひっくり返したような町で、全体が世界遺産に指定されている。4万平米というヨーロッパ最大の広場Rynek Głowny(中央市場広場)がど真ん中にあり、中世からそのまま残されている。そのまた真ん中にルネサンス様式の(Sukiennice)織物会館があり一階は通り抜けられてお土産屋が並ぶ。
Kościół Najświętszek Panny Marii(聖マリア教会)
1222年建立。左右で高さが異なるのは完成時期が異なるからだ。
毎定時、塔の上からラッパが東西南北の角度で鳴らされる。
昔モンゴル軍が攻めてきたとき、敵襲を告げるラッパが今も吹かれているのだ。
Mikołajska通り
聖マリア教会の北隣りの道。
建物が袴をはいているように末広がり
突き当りがŚwiętego Jrzyża(シフエンティゴ(聖) クシジャ)通り
Mały Rinek(マウイ リネク:小市場広場)から
中央の屋根は(Kościoł Św.Barnary)聖バルバラ教会
右がWikarówka Kościoła Mariackiego(聖マリア昇天教会)
左がAntykwariat Księgarski Józef Nowosielski(骨董店、古書店などジョセフNowosielski)
Sienna(シェンナ)通り
この道を降りていくとスポーツshopのPolar Sportがある。
5/13(火) Wieliczka(ヴィエリチカ) 岩塩鉱 run&見学
Google Earth Kraków−Wieliczka(ヴィエリチカ)
クラクフーヴィエリチカ runningルート
Google Mapから最短コースをもとめている。それをもとに拡大した図をMyMapとして持参。
Google
Map図
クラクフ2日目は今回の歩行からするとオプションというべきヴィエリチカ岩塩鉱への早朝running.。15kmほどしかないがこれからの苦難の旅の全ての要素を含んでいるので避けられないオプションである。市街地から郊外に行くとき高速道路を横切る。今回のコースは、A4という高速道路と幹線が交差する難しい行程である。途中で歩道部分が途切れ一般道路へ迂回をしたり最後には歩道すらもなくなるという試練まであるのである。GoogleMapとStreet viewで確認済み。タブレットに記入した行程に沿って歩を進める。
マゾビエツカ通りにあり、アールデコ様式の内装が施されたホステルDeco Hostel(Mazowiecka 3A 30-001 Kraków)を早朝飛び出した。向かうは15km南東にあるWieliczka(ヴィエリチカ)岩塩鉱。オブボドニツア大通りを抜けKrowoderska(クロボデルスカ)通りを800m行くと旧市街を取り巻く緑地帯に到着。トラムの路線も同様に緑地帯の外側をきっちり回っている。ここは公園内のほうが気持ちが良いので緑地内の土道を走る。なかなか気持ちがいい。
1kmほど走るとスタロビシルナ大通りへ出る。トラムの一台が交差点で停止し床下から煙を吹いている。運転手も様子を窺いに外に出た。一体、朝の大切な時間帯にこの事故とは。今後どのような展開になるのだろうか。この車両を軌道から離すのであろうか。まぁここは無情であるが先を急ぐことにする。
郊外に延びるトラムの線路がずっと敷かれその大通りをまっしぐら。ヴィスワ川を渡って「ナ・ズィジジェ通り」「Wielicka(ビエリツカ)通り」と名前を替えながらもほぼ一直線の道をハイウエーA4のICまで進む。小児病院の大きな建物が続く。ここからが問題の箇所。Street Viewでは歩道が無くなる箇所である。
高速道路A4ルートを跨ぐコース
01-056の地図にもあるように「?」の場所がそれである。とぐろを巻くジャンクションを抜けるまでははちゃんと紆余曲折ながら歩道がついているのであるがどうもその先が怪しい。一般道路にてそこから別れるようになっているのだ。もはや先ほどの道路には戻れないのかと。そっと窺うと、草むらに一本の足跡が付いている。Google Mapで見ると「94号線」は本当の高速道路ではないが”黄色い線”の道路なので幹線道路。歩道がなく危ない。怖さが分かっていれば遠回りもしたであろうが今回はこのまま進む。2kmほど辛抱すればクラコフスカ通り(一般道)に分岐する。あとは600mほどでDworzec
PKP Wieliczka(PKP ヴィエリチカ駅。「Dworzec:ドボジェツ」は「駅」という意味のポーランド語、最初は駅名かと思い一生懸命、インターネットで検索していたものである。)
Wieliczka(ヴィエリチカ)岩塩採掘棟
ここから地下100mに潜る。
ビルの高さにして60階。
木で出来た螺旋階段を地の底まで降りていく。
この恐怖に耐えられない人は、入場してはならない。
6千年も前から掘り続けられ今も現役の岩塩現場である。
採掘現場は地下64-325m。
地下は頑丈な木組の部屋で仕切られている。
特に大きい部屋が4つ。
岩塩鉱の諸施設は8時からopen。なんとも時間が早い。施設内は閑散としているがこんな早い時間から行列をしているのが一か所。掘削現場へのガイドツアーである。団体さんは8時からで、どんどん地下に降りていく。多国語のガイドは9時からということで一番客として並ぶ。英語でのツアーが始まった。地下まで延々、螺旋階段を下りていく。60回ほど螺旋を回った所で地底に降り立った。ここから約2.5kmのツアーが始まる。団体ツアーが行う”省略ツアー”でなくこちらは70zł(約2800円)の徹底ツアーである。2時間を要した。木の階段を280段地下110mの地底まで降りていく。一階が低いので100階くらいらせん状の階段を降りた感じ。30m立法の巨大な塩の空洞が4つほど。その間は長い廊下で結ばれている。換気のためいくつもの扉で仕切られている。
Wieliczka(ヴィエリチカ)岩塩の地下通路
岩塩鉱の中は、およそ2.5kmが一般に公開されている。
ガイドに従って歩く。(空調や気圧調整のためのベンチレータの重い扉を開けながら進んでいく。
ここで迷子になったら一生帰れない。)
Wieliczka(ヴィエリチカ)岩塩のチャペル
Wieliczka(ヴィエリチカ)岩塩のチャペル
塩の結晶やむき出しの岩塩。3000年前から掘られているという。迷路中の迷路。ガイドとはぐれたら地上には辿り着けない。水晶のようにクリスタルになった掘削現場や鍾乳石のような形状、洞窟、掘削の様子を示したレリーフなど。大きな部屋が4部屋ほど。すべて塩で出来ている。チャペルにぶら下がるシャンデリアも塩の結晶である。彫像には圧倒される。
こんな危険な見学コースは初めてだ。ガイドも最後の100mは勝手に行動しろと。こちとらは地下・狭所恐怖症のため一刻も早く地上に出たい。地下には観光客用の食堂もあり客が寛いでいる。しかしこちらは閉所恐怖症なのかやたらと地上に上がりたい衝動にかられる。息が苦しいのだ。韓国人団体に行方を阻まれる。
やっとエレベーターの箇所まで到着。なんとこのエレベータ。工事用で10人しか乗れない。荒削りの岩肌に沿って、外枠にぶつかるように、ギシギシと音を立てながらエレベーターはゆっくりと登っていく。地上に出たときは「生還」という言葉が似合いそうなまさに”生きて帰れた”という安堵感。
このような恐ろしいツアーは初めてであった。Wieliczka(ヴィエリチカ)からの帰りはバスを利用。中央駅(Kraków Głównyクラクフ グォブニ)まで3zł(120円)ととても安い。苦労したマラソンの対価がたったの120円だったとは!
クラクフの朝−オブボドニツア大通り
トラムや市民や花売りが街角の雑踏を演出。
昼の食事
DECOユースホステルから教わった安い家庭料理が食べられる店
(Radio Krakówクラクフラジオ局の1階)
左下がRosół(ロスカ:ブイヨンスープ)
左上がKlopsiki(クロプシキ:肉団子のソースかけ
(皿にあるには蕎麦の実(kasza gryczana(カシャ
グルィチャナ))
ポーランドの家庭料理には米粒に代わって蕎麦の実がよく出てくる。
5/14(木) クラクフ・バルバカン
当初クラクフは2泊の予定でDECOホステルという中心街から少し外れにある安ホテルを予約していた。日を重ねて、Wieliczka(ヴィエリチカ)岩塩鉱は見る価値があると聞いてクラクフを3泊にしたのだ。3泊目は中心街のSw.Krzyza通りにあるCity Hostelである。広場から400mしか離れていない。午前10時のチェックアウトでDECOホステルを出て、その足でCity Hostelに向かったがこちらのチェックインは午後2時。荷物を預かってもらい、市内観光へ。
3日間で相当の距離を歩いたり走ったりしていることになる。今後の旅へ大丈夫か?と疑問がわくが、そこは”リュックの無い町歩き”であるため完全に別ものである。
この町で目に付くのは全国から訪れている学生達である。夏休み直前の課外活動として数日の旅行先にクラクフを選んだ学校群である。その数何百と。ようするに宿泊している生徒たちは夜遅くまで町を闊歩するのである。21時までは明るいのでそれが可能。幼稚園児だって午後7時頃まで隊列を組んで町を行き来しているのだ。驚愕する。
歴史都市はどんなに勉強してもし尽くすことは困難である。微に入り細に入りガイドの説明に耳を傾ける。我が方の外観だけの見聞とは深さが違う。彫刻の窪み一つに意味があるのであるがこちらはそういう事にはまったく感心がない。余りにも歴史の予備知識が希薄ときているからである。
一昨日、聖マリア教会の塔から定時刻にラッパが鳴らされるが、途中で音が止むと書いたが、これは「モンゴル軍がラッパの奏者をめがけて打った矢が\に喉を貫かれて殺された瞬間」を表現している史実に基づくのだと。恐れ入った。ならば下で聞く観衆は”文句”ではなく”絶叫”を表現していたかもしれないのだ。ただラッパは均等に東西南北か、少なくとも2面以上で吹ていた。
なかなかの演奏でクラクフの大学生かプロが代わるがわる吹いているのかもしれない。哀愁のある曲であった。
音楽といえば、ポーランドではついに家から流れ出ると予想したピアノの音にはめぐり合わせなかった。ヴァイオリンはもちろん。一体彼らはどこで練習しているのであろうか。
次回はちゃんとガイド付きでこのクラクフを訪れたいものである。
Barbakan(バルバカン)
ポーランドの朝は早い。企業や公的機関は7時が始業時間。
幼稚園児でも8:30ともなれば遠足で市内を闊歩する。
ワルシャワのと合わせてヨーロッパには3ヵ所しか残されていない円形の砦。
最大規模という。侵入者から守るために、壁・ゲート・防塁(ゲート前)というsetで旧市街をぐるりと取り囲んでいたものであるが、
城壁は19世紀に取り壊された緑地にされ、防塁とゲートの一部が残された。
それがこのバルバカンBarbakan(防塁:1498建造)である。
Brama Floriańska(フロリアンスカ門)の内側
ゲートはBrama Floriańska(フロリアンスカ門)
クラクフ旧市街は、この門をくぐって進んでいく。
まったく別世界の風景が展開される。
Floriańska(フロリアンスカ)通り
家々の先に聖マリア教会の塔が見え隠れする。
お土産屋が列をなし、cafeなども多く、まさに観光の別天地である。
ちゃんとMcDがある。
Jan Mateiko(ヤン・マテイコ)像
キャンパスが借景となっている。
ポーランドの画家Jan Mateiko(ヤン・マテイコ)(1838-1893)
歴史絵画で数々の賞を得ている。
『グルンヴァルトの戦い 』(ワルシャワ国立美術館所蔵)が有名。
クラクフにあるヤン・マテイコ美術学校の校名となっている。
Adam Bernard Mickiewicz(アダム・ミツキェヴィチ)像
Rynek Głowny(中央市場広場)の東側に立つ像。
アダム・ミツキェヴィチ(798-1855)
ポーランドを代表する国民的ロマン派詩人。
というより観光客の格好のベンチとなっている点が面白い。
【2.2015.5.15 Kraków(クラクフ)からウォンツアニまで】
Google
Earth 1.Kraków(クラクフ)→Oświęcim(オシフエンチム)のコース
2日間のコース
途中に一回、テント泊(Łączany(ウォンツァニ))が入る
5/15(木) クラクフ出発
クラクフ旧市街地のCity Hostelを6:58出発。実は前日にフロントにてModern-routeであるクラクフ→Leipzig(ライプツィヒ)1500kmの内のクラクフ寄り50kmのトレールコースを歩くつもりで現地のホテルを探しておいてもらったのだ。
クラクフから北東に行くコースで夏場は農業体験ができる農家もあり人気のトレールコース。30km先のPieskowa skała(ピエスコーヴァ スカヴァ:Agrotourism)辺りはホテルも多く飛び込みでokであろうと。予約はどこもできていない。朝から迷わせる発言である。このコースはStreet Viewでみると荒れた土道も多く、キャスター付きの台車案では無理であった場所である。当初はこれを外したが今やバッグパック2つという旅装なので歩行可能の範疇。しかしながら目標のオシフエンチムからは遠ざかるため、2日目にTrzebinia(トシェビニア)
or Krzeszowice(クシェショビツエ)から電車に乗らなければならない。
歩行ルートが途切れるためあっさりと当初案通りヴィスワ川沿いをOświęcim(オシフエンチム)まで歩くことにした。
Kraków(クラクフ)からの旅装束
まさにサンドイッチマンである。
前後の重い荷物に挟まれた自分。
この中から3kgの荷物をドイツから7月7日に日本に郵送。それまでの1500kmはこのスタイル!
景色は実に牧歌的。トラム(市電)のラインが折り返しとなる場所が市街と郊外との境らしい。郊外からの路線バスはこの市電の終点までまず客を運ぶようである。Caminoがはじまったという実感。今までの違いは友がいないことと、caminoマークがないことと。クラクフから日帰りで往復70zł(ズオーティ=2800円) で行けて仕舞うのである。2日もかけて歩く意味分からん!ということのようである。皆車を止めて聞いてくれる。どこまで行くのだ。乗れと。Zator(ザトール)では司祭がクレデンシャルにスタンプを押してくれる。
Wisła(ビスワ)川の土手
May15th
8:53のどかな風景である。
たゆたゆと流れるビスワ川
コチュシコ山の西側の丘
May15th
8:26
丘の上の建物群は修道院(Camaldolese
Hermit Monastery)
今思えばこの風景は貴重である。この後 山の無い「平野」ばかりとなる。
川沿いの風景であるが高さ150mくらいの丘が連なる。(標高は333m-365m)
Lisziki(リシュキ)教会św.Yakuba Mało Polska
May15th
10:21
朝市が開かれていた。
ガーデニング用の花を売る店が多かった。
Zagacieザガチェの坂道
May15th
12:22
780号線から外れ田舎道を延々南下。
昼食に適した草地を見つけマットを敷く
坂を見つめてスケッチ
豊かな田園風景
May15th
14:16
同じく。
さて第一日目からテントである。Google Earthのmapから何ヶ月も前からポイントを決めているのである‥川の分岐地点、500mの長さの堤の先である。あろうことかその道に行く場所で酔っぱらいに掴まってしまった。ここは水位が上がるので危険であるというのである。10km先のZator(ザトール)へ行という。バスを使えばよいと譲らない。拉致があかないのでトボトボと歩き始める。すでに32kmは歩いている身にはつらい。2kmほど先に踏切があった。タンポポが咲き終わった手頃な空き地があったのでテントを設営。中の空間は実に快適。自分のspaceをやっと持てた感じ。外に出て夕日を拝む。ドイツ語を喋るポーランド人が通りかかった。すこし酔っているようだ。ウォッカのビンを草むらに放り投げた。(この旅では酔客を多く目にした。ポーランドの問題点であると人は主張する。)
シャワーでもていけと。2つのリュックをお互いに担ぎテントの端を持ったまま線路を渡り粗(そま)道を行く。親切な人もいるものだ。不思議な民族大移動である。家に帰れば英語の分かる2人の娘と息子がいるので色々と聞ける筈だと言う。こんな調子のよい話があろうか。家に到着したらなにか様子がおかしい。子供たちと親父が旨く行っていない家族のよう。そのうちに奥さんも帰って来た。見ず知らずのテント人を家に連れてきたということに烈火の如く怒り出した。延々喧嘩が続くのでこちらは小さくなりながらもテントをたたみ退散の準備。迅速な設営、撤去という工程を勉強できただけでも収穫。英語で親父を弁明してあげるべきだったと反省しつつ、結局同じ場所に戻りさらに奥に設営。人目のつく場所では”ビバーク”という形のシェルターは変な親切心を呼び起こしてしまうものだと、今後は草原や公園、森の中などにしなければならない。
どの町を通っても厳重な垣根とよく吠える犬で守られたポーランドの住宅。恐れ入った。
この夜の恐怖はどんなものだろう。とにかく線路を行く貨物列車がうるさいのだ。テントの中から台車を数えて見た。50輛。長さ1kmの列車がひっきりなしに通るのだ。石炭を運んでいる。このままアウシュビッツに送られてしまうのだろうか。75年前の恐怖の叫びがこの線路から聞こえてくるようであった。朝は極寒。外に置きっぱなしとなっていたマットの袋が凍結していた。
貨車
May15th
17:54
テント場の横を貨車が走る
線路際の夕日
May15th
19:51
貨物列車は50-100輌と長い。
貨車と夕日
May15th
19:58
この夕日を撮っていたらウォッカの小瓶を持った男性が通りかかる。
話しかけた。その後第1報にある展開が。今考えるとアル中の男性だったのかもしれない。
酔った勢いで「テントを自宅の庭で。」というので2人で担いで移動。しかし家庭内騒動が持ち上がり退散。結局同じ場所へ戻ってテントを張り直した。
【3.5.16(土) Łączany(ウォンツァニ)→Oświęcim(オシフエンチム)-5/17(日) 】
前夜の恐怖はどんなものだろう。とにかく線路を行く貨物列車がうるさいのだ。テントの中から台車を数えて見た。50輛。長さ1kmの列車がひっきりなしに通るのだ。石炭を運んでいる。このままアウシュビッツに送られてしまうのだろうか。75年前の恐怖の叫びがこの線路から聞こえてくるようであった。朝は極寒。外に置きっぱなしとなっていたマットの袋が凍結していた。
Łączany(ウォンツァニ)の早朝
道路右側の”ザレ場”が歩道部分としてよく利用したスペース。
菜の花畑
菜の花の収穫はついに見ることはなかった。9月頃までカリカリに実らせるのだろうか。
今ドイツ、ポーランドを旅してしている人は報告して欲しい。
さて、オシフエンチムまでの道はのどかな田園風景。
ウォンツァニのテント場は線路際。その五月蠅いことといったら。夜中でも通過する貨物列車。耳栓を通しての大音響。余りにも線路に近かった。さりとて最初は1mしか離れていない咲き終わったタンポポの上、位置を変えて道路を挟んだ雑草の繁る原野。これでもうるさかった。朝は4時起床。
なにせテントの中で食事をし、着替えをし、テントを畳みと、やることが多い。出発は6時となってしまった。それでも辺りはまだしーんとしている。
昨日のことだ。ここに至る道で家から2人の兄妹が飛び出してきた。「水は要らないのかと。」金曜の15時頃である。学校は無いのかと聞くと、Holydayだと言う。すでに金曜日の午後から休みモードにスィッチが入っていたのであろう。2人とも実に晴れやかな顔をしている。お言葉に甘えてミネラルウォータ1.5Lを頂戴した。
さて、街道の44号線は町の中以外は歩道が無い。こちらの車はspeedが半端でない。ビュンビュン飛ばす。タイヤが日本のと違うのか音までもが怖い。そこで舗装道路は歩かず、隣に必ずある1m〜2mくらいの草道をメインに歩くことにした。
町はRyczów(リチェフ)、 Spytkowice(スピトゴビツエ) 、Zator(ザトール)、 Przeciszów(プシェチシュフ)、 Włosienica(ブウォシェニツア)を経てOświęcim(オシフエンチム)と続く。素朴な田園地帯である。あとで聞くとビスワ川のこの辺りは風景が抜群なのだと。
Zator(ザトール)では丘の上に教会の尖塔が見えた。作成した地図上でもマークしている教会なので寄ってみた。土曜日で、祭典でもあるらしく大勢が集まりかけていた。玄関で対応していた司祭に巡礼の印を貰おうと進み出た。
Zator(ザトール)の教会
(sat) 16 May 9:23
Parafia rzymskokatolicka
św. Wojciecha i Jerzego
聖ヴォイチェフとイェジーのローマカトリック教会
正面の壁の飾りがユニークである。Danskerというのであろうか。
今後沢山目にする機会が。
事務を行う別棟があるらしく案内され女性が出てきて挨拶。今回の旅行について少しお話。広場では10時という時間、レストランは早すぎてまだopenしていない。閑散としている。スパーに入って水を買った。
しかしここで失敗が。水といっても20種類くらいの1.5Lボトルが、6本の束でづらっと並んでいる。個別でも買えるらしい。どれも一緒だろうと思ってその一本を買ったのがレモン入り・ガス入りという類の添加物が沢山入った水であった。早めの昼食を摂ろうとして芝生で飲んでみたが、炭酸ガスのシュワーという泡が出てくるわ、味は不味いわで、即新しいのを買い求めに再びスーパーへ。
ノン・ガスをまず選ばねばならぬ。woda gazowana(ヴォダ
ガゾヴァナ:炭酸入りミネラルウォータ)、woda niegazowana(ヴォダ ニエガゾバナ:炭酸が入っていないミネラルウォータ)をラベルからまず読み解かなければならない。その上で色んな味付きを外していく。ペットボトルの容器の色に惑わされてはならない。ピンクのだってちゃんとミネラルウォータなのである。「言葉」が全てである。翻訳機で翻訳しながらの買い物。今後の苦労の事始めとなった。
最後には近くの人に、「これ本当にミネラルウォータですか?」と確認しつつ。恐る恐る栓を開けてガスが出てこないのを確かめ、飲んでみて初めて納得。と涙ぐましい努力。
ちなみにスペインやフランスのcamino道にあった「水道水」の飲み場はこちらは皆無。すべてお金で買う水か、ホテルから持ち出した「水道水」のみである。
畑に巨大なテーマパークが出来ていたりしていた。手を振れば応えてくれる。道路に面する家は皆大きい。庭が広いのでガーデニングを楽しんでいる。見事な庭園が多い。庭に飾るオブジェも専門店で売っていた。
さて、いよいよOświęcim(オシフエンチム)の街に入ってきた。Katowice(カトヴィツエ)までは直線28km、クラクフまでは54km、と中核産業・観光都市からそうは離れていない。ベッドタウンという形で開けた町に映ったがここはAuschwitz(アウシュヴィッツ)という負の一大遺産の土地でもある。町の中心はアウシュヴィッツ収容所を中心に置いてみると半径3kmほどの町がOświęcim(オシフエンチム)である。ここから東北2kmに大聖堂や旧市街。北1.5kmに国鉄PKPの駅がある。Auschwitz(アウシュヴィッツ)とBirkenau(ビルケナウ)両強制収容所は2kmほど離れているが、見学は明日((sun)16 May)としてホテルに投宿。
テントや寝袋の乾燥、衣服の洗濯とやることが多く、疲れも取りたいということでホテル内レストランで夕食。ホテルに着いたら何処へも行かないというこんな贅沢は許されるだろうか。そう思うほど楽な夕餉であった。
5/17(日) アウシュビッツ強制収容所
8時オープン。30x20x10cm 以上のバッグは持ち込めない。スケッチ道具をバラして手持ち。
ガイド付きの場合は10:00-15:00。ここ1と2(Birkenauビルケナウ)のコースがある。2は2km離れているがシャトルバスが運行されている。午前中は30分おき、午後は15分おきで運行。始発は10:30。こちらは全部歩きで11:15には見学を終了。負の遺産はドイツにもあるがここは規模が最大級。微に入り細に入り余すことなく全てを展示している。まさにA to Z である。日韓の問題も 目をつむることなく こんな風に展示してみたらどうだろう。赤恥ものであるが。ここでは未来への保存 preserved futureという言葉を使っていてヨーロッパ中の国々の名前を記し、施設の保存への協力感謝をうたっていた。午後は旧市街へ繰り出した。緑多いこの町は地方のベッドタウンとなっているようだ。日曜日の一時、公園を散策したりローラスケートで走ったりと思い思いに過ごしているよう。落葉樹ばかりなので、秋の紅葉は見事であろう。
アウシュヴィッツ強制収容所−囚人棟
(sun) 17 May 8:21
赤レンガの棟がポプラ並木に整然と並ぶ。その数28棟。
左が15号棟(ポーランド)、16号棟(チェコスロバキア)
アウシュヴィッツをスケッチしてよいのか?
と迷うところがあるがスケッチのほうが写真よりも仔細に眺めることが出来るため、
あえて早朝の閑散時間にスケッチ。
アウシュヴィッツ強制収容所−ガス室
(sun) 17 May 9:20
柵の外側にありここまで歩を運ぶ見物人は少なかった。
3台のガス台(レールがついている)を
いかに能率よく切り替えるかという点のみに腐心していたドイツ兵。
この中で働いていた。
Birkenau(ビルケナウ)強制収容所
(sun) 17 May 10:14
レールが残されている。中で多数の線路に分岐し広大な敷地に運ばれていった。
昨夜の線路わきのテント。
轟音の響は、ここに至った人々の絶叫を表しているようであった。
残された貨車
Birkenau(ビルケナウ)(=アウシュヴィッツ2)にポツンと1台だけが残された。
Kościół NMP Wspomożenia Wiernych聖母ヘルプ教会
(sun) 17 May 13:45
壮大な教会っであった。この大屋根はあと1段左側にもあり緑色をしている。
荘園のような広い庭が背後のビスワ川に向かって傾斜を作っていた。
【4.2015.5/18(月) Oświęcim(オシフエンチム)からKatowice(カトヴィツエ)まで】
Oświęcim(オシフエンチム)→Katowice(カトヴィツエ) map
(mon) 18 May
Katowice(カトヴィツエ)までの地図
目印の21kmポイントがフェンスの場所。
ピンクの線はその後の第2の迷子のコース。
下記"苦戦"を読んだ読者は、1.turbo717さん。もう十分だから帰ってきなさい。2.無着を止めて帰ってきなさい。3.ポーランド語もまともに喋れないのにもともと無理だったのだ。即帰るべし。4.いえいえ苦難を乗り越えて旅を続けなさい。いずれだろう。この旅で泣きたくなることは多々あったが最大の危機。
苦戦
5/18(月)Ośwęcim(オシフエンチム)からKatowice(カトヴィチェ)まで北上。当初予定に入っていない町であるが、コンサートホール(ポーランド国立放送カトヴィチェ交響楽団 :Narodowa Orkiestra Symfoniczna Polskiego Radia w Katowicach,
NOSPR) のホール)の音響効果に日本の設計事務所(永田音響設計)が関係しているということもありコンサートホールだけでも見ておきたいと思った次第。コンサートのチケットは売り切れであったが。
Oświęcim(オシフエンチム)駅
(mon) 18
May 7:54
通勤時間帯。ひっきりなしに2輌編成や5輌編成の電車が到着していた。
空き地
(mon) 18
May 9:25
休耕田であろうか。
鉄道
(mon) 18 May 10:28
鉄道路は非常に多い。
電車が来たら止まるがそれ以外はスピードを落とさず踏切を疾走する
スーパー
(mon) 18 May 11:09 żabka(かえる)マークのスーパ。(art.spożywcze 食料品)、
この他にポーランド最大のスーパはBiedranka(てんとう虫)。品質がよいと評判である。
Lędziny(レンジニ) Jana3Sobieskiego通りからの眺め
(mon) 18
May 12:34
Katowice(カトヴィツエ) に向かう途中
考えてみればこの旅で最も危険が伴うコースであった。カトヴィツエまでの35kmは南北13kmx東西10kmの森を南から北に縦断する要注意地帯。途中まではトレッキングコースがあり直線の砂利道。この後がいけなかった。 Google MapやGoogle Earth上では細い道の表示。実際は
森が切り開かれ明るくなっている部分。道があるとは限らなかったのである。樹海の中の切り通し という形。深い轍に水が溜まり悪路と変化していった。
道に迷う
鉄道施設にあるレール群と一本の廃線。
これを囲む鉄のフェンスが張り巡らされていたのだ。
そこで戻ればよかったのであるが。ままよとばかりそのまま進んだ。ここで予定通り鉄道施設にぶつかり左折。道がますます怪しくなってきた。草のなかに僅かに足跡が続く程度となった。そのうち灌木が前を塞ぐようになりついに道が途絶えた。これだけならいつものことで車の音がする方向へ藪こぎさえすればなんとかなる。あろうことか鉄のフェンスが行く手を遮った。鉄道施設は古い線路を防御するように土手の上にづっと続いている。しかも4mほどの高いフェンスだ。これは登る以外に手はなさそうである。自動車の音がするためそこにたどり着くためにはフェンスを2回乗り越えなければならない。深閑とした森の中。誰も助けてはくれない。胸に担いでいたリュックを放り投げるも高さが届かない。ええいままよ。と全部持ったままフェンスを猿のようによじ登る。
フェンスの格子は10cm角。トレッキングシューズの先が漸くひかかる幅。錆びついたフェンスが軋む。上まで漸く届いた。ザックを放り入れる。つぎに最上部で足を跨ぐもこんどはフェンスの先が鋭利なナイフのようにパンツに突き刺さる。ナチからの脱走もこんな風だっただろうか。漸く線路側に降り立つ。道路が見えるが反対側の柵の下が崖のようになっていて越えられない。線路をたどるうちに踏切にでも出くわすのではと思ったが甘かった。廃線は途切れていてフェンスも閉じている。線路の中に入ってしまった小生は檻のなかの人となってしまった。今回の旅もここまである。本日の行程はまだ20kmも行程が残っているのにこのまま夜を迎えるのであろうか。再びフェンスをよじ登って外に出る。谷を3つ越えて県道に到着。旨く通れたとしても更に森が立ちはだかる。ここで計算を誤った。道が真っ直ぐ通れたとしての800m、迂回したため1300mほど進まなくてはいけなかったのにそのまま800mで次の森に入ってしまったたのだ。行けども行けども目標の池が見あたらないのだ。散策やマラソン中の人をつかまえては地図を見せるが拉致があかない。池を目指していたのでその地図を見せているのに池は無いという。全員地図が読めなかったのであろうか。挙げ句の果てにあらぬ方向を示されそれを信じて右折。別の町へ出てしまったという次第。
そもそもsimカードの電波が希薄だったためだろうか現在位置をしっかり詳細地図上に表示しなくなっていたのである。まだまだこの時は素人であった。Google Mapでもキャッシュ機能があるため予め詳細地図をマイプレイスとして保存しておけば電波が無くてもGPS機能だけで詳細な現在位置確認が出来る事を知らなかったのだ。元に戻ったところで散歩中の夫婦に会う。全部resetして元に戻るよりもこのまま進めと新しい行程を示してくれる。そこで助かった。人の住む町に到着。ここからが問題。今どこに居るかが分からないのだ。藁をも掴む思いで道行く人に尋ねるもポーランド語でまくしたてる。どうも目標の池を大きく迂回して東側の町に着てしまったようだ。Czy mówi pan(or pani ) po angielsku.(チ ムヴィ パン ポ アンギュルスク=英語が話せますか?)と英語が話せる人を必死に捜す。最後のご婦人がドイツ語混じりで100m先にあるバス停から672番のバスをつかまえろという。100m先に交差点でもあるのかと不信ながら道を急ぐ。なんと目の前に672番のバスが逆方向に通り過ぎる。何! 100m先ではなく目の前の反対側の停留所だったのだ。走りに走りそのバスに飛び乗る。ようようにして電波も届きだしGoogle Mapで現在地を確認して初めて分かった。何と目標の池を都合大回りで3/4周していたのだ。当初歩く行程も2回は横切っている。
カトヴィチェまで4.6ズーロ。10ズーロ紙幣でお釣りがないと運転手。小銭が無いのでお釣りはないと言われ。もう散々である。インターネットが通じたのかおぼろげながら現在位置を表示した。大体の場所が分かったからにはバスなど利用しておれぬ。お金はよいという運転手の言葉に喜びつつ2駅でバスを降りた。飛び降りるのが早過ぎた。まだ15kmも残っていた。このあたりのバスの一駅が3kmほどと長すぎる。森の中を2駅ほど歩く。この間に当初ルートと1回交差している。
もう十分である。別のバスに乗って生還したが間違えばポーランドの土に消えていたであろう今回の失敗。”森を侮るな””ということである。Google
Earthでも確認できる森の道は単に木を一直線に切り開いただけの道である場合もあり要注意。草道にはこれからは踏みこまないという覚悟。今後の道を精査し直さなければならない。
今回の反省点はいろいろあれど。森の道はなかなか曲者である。よほどの方向感覚がないと分け入ってはいけない。人には道を聞くな・自分をもっと信じろ。simカードはよく電波を拾うものに切り替えろ。Google Mapのマイプレイスは事前に詳細地図(1/5000の縮小。2cmで100m)をタブレットに保存しておけ。・・・「退散せよ」 という言葉はここには無い!
Katowice(カトヴィツエ)大聖堂
(mon) 18
May 19:14
手前の方が低い。そこから祭壇までエレヴェータで登る。
中では熱心な信者がお祈りをしていた。ミサが始まった。
Katowice(カトヴィツエ)のトラム
(mon) 18
May 19:34
トラムが90°曲がる箇所。
角に、面白い建物があった。
最上段が面白い。
【5.5/19(火)Katowice(カトヴィツエ)からZendek(ジエンデク) 】
カトヴィツエにあるコンサートホール【ポーランド国立放送カトヴィチェ交響楽団 :Narodowa Orkiestra Symfoniczna Polskiego Radia w Katowicach,
NOSPR) の拠点ホール)】を見たいばかりに当初予定のコースを変えてカトヴィツエへ迂回したのにも拘わらず、結局ちらりと観ただけだ。
それより町の佇まいに圧倒されたという状況。朝のエネルギーに満ちたこの景観はいったいなんだろう。今までにない活気があった。2連のトラム、街角の花屋、ビジネス街、高速とのジャンクション、地下通路・・。全てが面白い。一人だけリュックを担いで都心を離れていく。喧騒が次第に遠ざかり、街路樹の緑陰の中を一人反対方向に行く自分が可笑しい。郊外のオフィスに車を飛ばす人だけが同じ方向という関係で愛着すら覚える。公園を抜けて住宅街。そこでは通学時間と重なり沢山の児童が校舎に吸い込まれていく。
ここでは親たちの警戒の目があった。初めて目にする人が、地元民しか知らないような裏道を歩いて行くからだ。ゆるせ。最短コースを結んだだけなのである。
起伏のある道を上り下りしながら進むと、Wojkowice(ヴォイコビツェ)。途中で切れた橋などが残っており遺跡でもあるのであろうか。Brynica川とJaarznik川が合流するあたりに白鳥が沢山泳いでいる。川の土手にコースを取りのどかに進む。女性のrunnnerがこの区間を周回していた。何回も会う。
Katowice(カトヴィツエ)空港の広い敷地。ここは管制室の管理下にあるため不審者は警戒される。フェンスの外側ではあるがマットを敷いて休んでいるとさっそく警備の車が見回りよろしくちらりと一瞥をくれて通り過ぎて行った。閑散とはしているがどこからでも見られている自分を認識。
雨が強くなってきた。驟雨である。バス停まで急ぎ暫く雨宿り。時間は夕刻。ここで少し思案をする。ここから先5kmの森が待っているが、本日はこのZendek(ジエンデク)で打ち止めにしよう。森には入らず辺縁で野宿を決定。
街道から直角に曲がって森へ進む道はそま道などではなく車道でしっかりしている。距離計測上、曲がってから1.3mまでに橋が3個ある筈。どうみても橋は2つしかない。そこで計測をやり直した。この道を1.5往復したことになるが、このまま森に入っていっても当初計画した”林道”が無いことを確認。テントを森の入り口で張る。昨日の失敗があるので明日はおとなしくバス道を進もう。
Siemianowice
Śląskie(シェミアノヴィツェ シロンスキュ)のマイケル教会
(wed) 19
May 7:54
Kościół pw. Św. Michała Archanioła
街道沿いに突然現れた豪壮な建築様式の教会
赤の色調に目を奪われ思わず立ち止まった。
古い橋
(tur) 19
May 10:40
Wojkowice(ヴォイコビツェ)の遠望
(wed) 19
May13:04
昼食の現場からスケッチ。街道筋を形成するスタラ通りを底辺として小さな丘陵がある。
そこに家が点在する。夢のように美しい町並みであった。
【6.5/20(水) Zendek(ジェンデク)からCzęstochowa(チェンストホヴァ) -5/21(木)】
Katowice(カトヴィツエ)からCzęstochowa(チェンストホヴァ)までの map
この間85kmもあるが助けを借りて2日の所要。
再び森
さて森はずれのテント場では小鳥たちの歌声で目を覚ます。大きい森を迂回するようなバス道は、なんとも遠く感じる。もうホトホト嫌になってくるほどである。この森、東西に152km、南北に20kmととてつもない森である。その一端ではあるがかすめるように進む。(ポーランドでは都市の中に森があるのではなく、森の中に都市があるという感じ)森の標識
(wed) 20
May 7:40
Świerklaniec(スビエルクナイエク)森林地区へようこそ。
Cynków(ツィンクフ)のmini superで食料やジュース、水などを購入。その分荷物は重たくなる。 9km ほど行った場所で国道1号線。N1、E75を横断して、Koziegłowy(コジェグウォビ)に行かねばならない。高速道仕様の道ではないが中央分離帯に緑地がある、言わば準高速道。そこを身一つで横断しなければならない。こんなせっしょうなことがあろうか。しかし意外と車は途切れながら走っている。中央で一旦休み、さらに横断を続ける。
ここでもmini superに入ってジュースを仕入れる。 100%のジュースが美味しくてついガブ飲みしてしまう。真っ黒い顔にサングラス。しかも東洋人ときている。店の小さな女の子が口を開けた。びっくりして泣き出してしまった。無礼をわび店を出る。さっきの国道に合流する。これから数10kmは国道。危険きわまりない。側道と言うべき土の道が僅かにあるためそこを歩く。
Romanów(ロマヌフ)→ Zawada(ザバダ)→Koronia
Poczesna(コロナポチェスナ)と進む予定であるがこれは今考えると少し無謀な道の選択であった。遠回りでももっと田舎道を取るべきであった。
案の定、危ない国道を歩いたら、それを見た一人の青年が、次のガソリンスタンドで待ってくれていた。危険な道をトボトボと歩いていたのを見たのであろう。何処まで行くのだと聞く。チェンストホバーだと応えると乗れと。まぁ今日は十二分に歩いた。助けにすがろうと。話しているうちに驚いた。caminoを知っていた。23才の青年ながら10年前にパンプローナからサンティアゴまで歩いているのだ。母親がクリスチャンであるという。しかし自分は仏教徒であるという。ものすごいレアケースである。仏教徒にcamino。驚いた。
町入り口のガソリンスタンドで別れる。歩くことが基本のcaminoを知っているのだ。青年はウッチまで行くと言う。油絵とコンピューターデザインの勉強をしにくいと。仕事場はクラクフという。住まいはオシフエンチムの近くであると。大きな三角形をいつも車でまわっているのだという。奇遇であった。捨てる神あれば拾う神ありということか。国道でも市内へ向かっては歩道が始まっていたのだ。ホテルには連泊させてもらうことにした。
5.20(水)ポーランド徒然草
天気・・・暑すぎる。荷物を背負っているせいかものすごく暑い。
道・・・パリまで車道の右を歩いて来た。しかしそれが誤りであるという。パリから自転車でツーリングを楽しむ2人と出会った縁でパリで再開するということになった時に恐る恐る聞いてみたのだ。車道は左側を歩けと。運転手と目が合うシチュエーションで、彼らはこちらが歩いているのを認識し、その状態を確認して、よけてくれる。これが逆だと、人間を後ろから見るためどんな状態で歩いているのか確認できないためドライバーは前を歩く歩行者に注意の警笛を鳴らすことになるという。経験では、右側を歩くということは、進行方向が同じとなり、ヒッチハイクのように車が止まってくれるのを心待ちにしている状態とも受け取れてしまう。道理で多数の車が止まり、さらに乗せてくれたものだ。
左側の歩行で恐ろしいのは、右側車線のクルマが前を追い越す場合、後ろから迫られることとなり非常に危険。
鳥・・・バードウォッチングには最高の国である。なにせ鳥が多い。人見知りせず近づいてくる。夜は12時までお喋り。朝は3時と早い。鶏は「おかぁさーん」と鳴く。
5/21(木) Częstochowa(チェンストホヴァ)
ポーランド巡礼の中心都市チェンストホヴァ。8月15日の聖母被昇天の日に向けて全国からヤスナ・グラ僧院をめざして巡礼者たちが歩く。ワルシャワから250km 10日から2wの旅であると言う。彼らが広大な広場を埋め尽くす。
Jasna Góra(ヤスナ グラ)
Częstochowa(チェンストホーバ) のJasna Góra(ヤスナグラ)寺院を見学しつつ 9:00-10:30 の礼拝に参列する。高校生の集団に紛れ込んだおかげで彼らとも親しくなる。
有名な黒いマリア像は、主祭壇を要する寺院中央の部屋にはなく、隣の小部屋に祀られていた。テンペル画像のマリアやキリスト以外は覆いが被せられている。つまりこの覆いを替えることにより幾多のヴァリエーションが存在することになる。宝物殿にはそれらも展示されていた。ポーランド国内には2000を超える黒いマリア像があり崇拝されている。日本の城とまではいかないものの500m四方の敷地に150m四方の砦のような建造物。その上に巨大な寺院がそそり立つ。ポーランドの信仰の中心のような場所である。洗礼を受ける為なのか多くの児童達が白いドレスを着込んで礼拝に勢揃いしてた。少女たちの顔は母親そっくりの顔。コピーのようで傑作。女性はおしなべて美人である。よって子供も皆人形のように可愛い。
さて、この街で解決した問題点多数。
Sim カード・・クラクフの航空で購入した5zł(200円
羽田で両替した時のレイト。現金で払うレイトとしてはこの高いほうを採用しなければならない。実際は173円。)の「Play」が町中(まちなか)でも調子が悪い。インターネットにアクセスしても砂時計がちょろっと伸びて最後まで行かない。HotelのWiFiの方がよほど速い。Simカード交換のための細いピンを無くしていたので「Orange」のオフィスに行って相談してみた。大通りの旧市街地に近い店にピンが置いてあると言う。ピンを買うついでにSimカードについても相談してみた。こちらは9złと少し高いがサクサクと動き出した。Google Mapの表示までもより詳細なStreetを表示するようになった。いままでの苦労はいったい何だったのかと。
絵の具・・Vermilionの絵の具をget。なにせ荷物が重たいので三原色と白黒の5色しか持ち合わせないのだ。ところがポーランドの家屋にはオレンジ色と赤色の中間色のヴァーミリオンの色が多いのだ。三原色で作れないことは無いが有れば便利である。画材店にやっとたどり着いた。大きめであるがチューブを一本買い求めた。
薬・・薬局でCompeedの豆治療パッドをget。CompeedのPadはフランス製である。以前フランスを歩いたときに重宝した豆用のシップPad。これほど優れたpadはない。今歩いている人も参考に。
Archikatedralna Parafia Katolicka przy Bazylice Metropolitalnej Świętej
Rodziny w Częstochowie
(thu) 21
May 8:21
チェンストホヴァの”聖家族大聖堂”
ヤスナグラから4kmほど東の旧市街地
チェンストホヴァ・ヤスナ
グラ遠望
(thu) 21
May 9:05
2.5kmほどの参道が国鉄を跨いで続く。
ヤスナ グラの黒いマリア
(thu) 21
May 10:27
ポーランドには1000を超す黒いマリヤ像があるという。
覆いは取り換えられる。
チェンストホヴァ・ヤスナ
グラ近傍
(thu) 21 May 12:45
【7.5/22(金) Częstochowa(チェンストホヴァ)からGidle(ギドレ) 】
Częstochowa(チェンストホヴァ)からŁodź(ウッチ)までの map
この間131km。3泊4日の旅。
驚きの連続
国道91号は途中工事中ということもあり、川沿いの静かな道を使って一路 ギドレGidleに向かう。ギドレGidleという街道から離れた町でテント泊の予定。そに向かっていたときだ。ここで野宿のためあまり早い時間の到着は憚られる。教会の礼拝のあとBarでポーランド料理を食べ夜陰に紛れてテントを張る予定。
Warta(バルタ)川に沿った静かな道
(fr1) 22 May 7:08
道端の休憩
(fri) 22 May 9:39
リュックとマット
どこでもマットを展開して寝そべる
これほど楽ちんなものは無い。
100%果汁のジュースは至宝。美味しくて1Lはすぐなくなる。
この思惑が全部外れた。時間調整のためマットを敷いて寝ていると車が止まった。どこへ行くのかと聞くので「ギルド」と応えると強制的に乗らされた。ギルドには3つの教会がありこのあたりの文化の中心地だという。賑やかな町についた。観光バスでも訪れる有名なバシリカが有る。そこで絵を描いていたら男性がずっと見ている。褒めてくれるが色々と指図してくる。屋根の色、壁の色。指示通りに描いていたら完成した。家族に見せるから来いと拉致される。庭から見る教会も格別だろうと。ここでダメ元で聞いてみた。この庭にテントを張らせてもらえないだろうかと。ターク!(ok)というこころよい返事。本当だろうか。向かいのBarで食事した後に来てもよいかと。ターク!
Warta(バルタ)川に沿った静かな道を歩く。最初は自転車道路の立派な道。そのうち草むらの道へと変化し、最後は砂道となって足を取られるようになった。馬でも歩くのかと思ったほどだ。しょうがなくまた91号へ歩いて行く。延々工事中で車道は一本。交互通行でじつに歩きにくい。凸凹もいいとこで、なにか山岳コースを歩いているようである。10数キロをそんな風に歩く。ギドレへコースを変える。91号が幹線ルートであるためそれを回避しつつあまり遠回りとならず教会巡りにはふさわしい地点とみたからである。cafeやレストランがあり「時間を稼いだ後のテント設営」には最適であろうとにらんだ。
この時期、どこでも雑草を刈る音がしている。側溝は大変な作業である。深さ1mくらいのV字型をした場所にも雑草が生い茂っているので、それを丹念に刈っていくのである。目にはゴーグルをしたりしている。通行人があると作業を一旦止めて見送る。挨拶などをかわす。Dzień dobry(ジンドーブレ!) Dobry(ドーブル。)
Rędziny(レンジニ)でこれまた教会(otylii教会)が目についたのでスケッチ。男性が近づいてきた。お金を下さいと。乞食ではないがコップのようなものを持っている。なぜ旅の私に声を掛けてくるのであろうか。こちらが貰いたいぐらいだと答えたら向こうに行ってしまった。こちらも貧乏旅行中である。Rędziny(レンジニ)のOtylii教会
(fri) 22 May 7:54
Parafia rzymskokatolicka św. Otylii
ギドレで有名なカテドラルをスケッチ。男性が近づいてきた。またたかられるのであろうか。今度は違った。教会前の家に住んでいるのだと。見ながら色々口出しするようになってきた。そこは青く。屋根は黒くと。指図通りに描いているうちに絵が完成した。家の人に見せるからと家の中に案内される。
聖母ギドレ教会
(fri) 22 May 15:10
Sanktuarium Matki Bożej Gidelskiej
バジリカ(身廊の2辺及び4辺に側廊をもつ様式)が有名で、一大観光スポット
庭の井戸を差し、この井戸を入れて一枚教会の絵が欲しいなどと。テントを張らせてくださるかと?聞いてみると快諾。やった。今日は安住である。
庭は共同の庭になっているようで数軒がぐるりと庭を取り囲む形式。夜はライトアップした教会が美しい。
ギドレの別の教会
(fri) 22
May 16:15
Gidle(ギドレ)
17:00からのミサは1時間半続いた。パイプオルガンが鳴り本格的なミサである。こいう教会で腕を磨いたのであろうか
若き日のブレハッチ。
Barでは。お勧めなのがジュレク(Żurek 発酵したライ麦のスープ)、コトレット スハボヴィ(Kotlet schabowy ポーランド風トンカツ)、ビゴス(Bigos キャベツと肉類やキノコを長時間煮込んだ家庭料理)、フレブ(chleb、パン)と。19:15からオープンであるという。では待たせていただいてもよいかと。ならばビールでもと。預かってもらっているリュックにある服を羽織りたい。寒いので。
何とこんな会話が成立してしまうのだ。「旅の指差し会話帳」と、タブレットにある「Google翻訳機能」で。あるときは日本語でタブレットに大声で話しかける。外人は一様に驚く。ネットワークがサクサク出来るようになったので音声翻訳が可能になった。あとはジェスチャーと筆談。
それにしても凄い量の食事が運ばれてきた。カロリーの取り過ぎである。この旅では強力(ごうりき)のような逞しさが求められ日々強くなっていくが太って帰ったらどうしょう。もっとしっかり歩きなさい。と天の声。「はい!」
ギドレの庭から夕日
(fri) 22
May 22:36
23 May 19:56
【8.5/23(土) Gidle(ギドレ)からKamieńsk(カミエンスク) 】
Radomsko(ラドムスコ)の教会
(sat) 23 May 10:11
Radmsko(ラドムスコ )Parafia
rzymskokatolicka św. Lamberta
91号線本道に戻る。延々6kmほどの真っ直ぐな道。わずかな起伏と林が景色を変化させる。カミエンスクは東西2km南北6kmほどの小さな町であるが市役所がある。ここにも教会がありリュックを庭先に置かせてもらいテント場を視察。牧草地のように広大な農地と川、絶好の条件なるも、ここぞと決めた場所には、車がやってくるは、自転車の通行人があるはそのうち除草がはじまるわと、何か怪しい小生を監視するために集まってきた感じであり時間を置くか別の場所にせねばならない。まずい展開である。仕方なく時間を稼ぐ事にした 。明日の日曜日のための食料などどっさり買い込む。外は14℃と肌寒い。
教会に戻ってくるとミサが始まる所であった。電子掲示板には歌詞が刻々と表示され、パイプオルガンの生演奏とこれまた本格的。
奇跡
漸くミサが終わった。たまたまであろうか。10人くらいの中学生も何やらノートにサインを求めている。同じように印を集めているのだ。小生の番が来た。このときだ。ダメ元と思いながらもテントを張らせて貰えないだろうかとノートに書いたポーランド語をみせつつ、自己紹介。なんと司祭がびっくりしたように小生を眺め全てを理解してくれたようである。つまりCamino(巡礼者)であることを。するどうだろう。渡辺徹のような温厚な顔の司祭がとたんに笑顔になり、「カモン、カモン」と別棟に案内される。世話係の女性が台所にいたが、そこからそっとパンを一個黒服に滑り込ませる。ジャンバルジャンを思い起こすようなシーンである。
それを持って2階へ。そこには従妹の美しい女性がこれまた笑顔で迎えてくれる。シャワーを浴びろ、洗濯物を出せ、夕食を一緒に食べよう、今日はバーベキューであると。慌ただしい展開も楽しそう。たまの来客と2人がはしゃいでいる。談笑につぐ談笑で、夕餉の一時は実に楽しかった。ここでも指さし会話帳が活躍。グリルしてくれた真っ黒いソーセージが出てきた。彼女がその本をパラパラめくりKasznka(カシャンカ)だという。豚の血と蕎麦の実を混ぜたもので皮は食べてはいけないという。別れ際、早朝に描いた絵をプレゼント。イスラエルから買ってきたというロザリオを夫婦で使えと2つもくれたり。もう奇跡という以外になかったこの日の経験。
ここに出てきたのがカシャンカである。ポーランド人に「カシャンカを食べた。」というと全員が卒倒するのである。なぜであろう。危険な食べ物であったようである。食べる時も皮を食べてはいけないと言われたが。ソーセージの中でも特殊なもので、豚の血と蕎麦の実をまぜたもので真っ黒な中身。(写真)翌日は一宿一飯のお礼に、教会をスケッチ。ここで「テントを張らせてください。」口上書きをネイティブに翻訳してもらう。
この口上書きが印籠のように場所場所で機能することになるのである。そういう意味でKamieńsk(カミエンスク)がミラクルの始まりであった。
カシャンカ
(sat) 23
May 19:56
中をほぐして食べる。美味。
一宿のお礼にと希望通り庭の井戸を入れて教会をスケッチ。それを玄関先にそっと置いて6:00に家の門を開けて外に。街道は人っ子一人歩いていない。
【9.5/24(日) Kamieńsk(カミエンスク)からDrużbice(ドルジビツエ)へ】
カミエンスクの朝は6:00。司祭宅で朝食。従妹はまだ寝ているという。日曜日の朝である。朝靄に雨。一宿一飯のお礼の絵は雨の中。傘を差しながら道路向い側より教会をスケッチ。
宿泊予定地のDrużbice(ドルジビツエ)は10km四方の大きなエリアながら人口は少ない。ほとんど農地である。その手前にあるBełchatów(ベウハトフ)は6km四方の都市ながら圧倒的に人口密度が高くビルまでもが建っている。この違いは何んだろう。市街地らしく都市の雰囲気。484号線というローカルな道を北上しつつ都市を抜けていくのであるが、川沿いの一角に大きな公園があり緑陰を形成する。バスなどが頻繁に行き交い乗客が多い。ずっと田舎道を歩いてきたため小生にはほっとする瞬間である。
露店のハンバーグ屋があったので1つを所望。パンに圧倒的な種類の野菜類をガバッと豪快に詰めてくれる。野菜不足の身には最高の食材である。食べる方が大変であるが大きく天を仰ぎ口に頬張りコーラーを飲む。露店のイスに座りながら感動。こんな美味しいハンバーグは初めてであった。日曜日の開店である。頭が下がるではないか。バス停前と言うこともあり結構繁盛していた。更に1つをオーダーしテイクアウト。
Bełchatów(ベウハトフ)の街には大きな公園がある。15時ではあるが中に入って一休み。
ウッチ手前37kmの町。日曜日の行程ながら街道はどの店も閉まっているかと思いきや。食料品やスーパーの30%が開いている。
行く先のドルジビツエで日曜日のミサでもやっていないかと、先を急ぐことにした。公園を出ると、何やら人だかり。人気のアイスクリーム屋であろうか。長蛇の人。よほど美味しいのであろう。みんなそれを頬張りながら歩いている。大人も子供も。ゆったりとした世界である。
Bełchatów(ベウハトフ)の公園
(sun) 24 May 15:11
ドルジビツェ(Drużbice)の接待
ドルジビエツへはBełchatów(ベウハトフ)から北へ10kmの位置。教会の門は固くしまっていた。月曜日の8:30にならないと司祭がやってこないと別棟のドアに貼り出しが。翻訳機で訳して初めて分かる。
まぁここは教会の影にでもテントを張らせてもらおう。夜の帳を待つよりしかたなし。詫び状を記したスケッチ画を教会の玄関に置いておこう。などとブツブツ言いながら教会を2枚スケッチ。誰も居ない教会前広場でしかも夕刻7時という静かな時間。通りにはもう人は居ない。這いつくばってスケッチの上にペンで文章を書いている時だ。視線を感じ後ろを振り向くとビールを片手に抱えた青年が手招き。すぐ近くに家があるので寄って行けという。付いていくと配電盤が故障しており電気が点かないという。そこには庭はあった。ガスは出るらしくラーメンをすすっている。いっしょにどうかと。まぁ怪しそうな家であるが好意には甘えたい。先ほど買ったパンと交換したりしながら歓談。「テント」の件を切り出すとokという返事。夜遅く母親が帰ってくる。イタリア移民の2人暮らし。貧しいが善良そうな家族である。教会の前と言う一等土地に恵まれた存在。幸あれと祈る。教会前という一等地に住むイタリア移民の家族であった。
Drużbice(ドルジビツエ)のŚw. Rocha(ローシャ)教会
(sun) 24
May 19:30
Bełchatów County
【10.5/25(月) Drużbice(ドルジビツエ)からŁodź(ウッチ) 】
ドルジビツエから朝靄の中を出発。485号線を北上するも農場がづっと続く。ほぼ真っ直ぐな道には時々側道があり歩道や自転車道として利用されている。歩道がなくなると次は畑の中の道を選んだりと。地図や地形、樹木を見ながら判断していく。
Drużbice(ドルジビツエ)の朝
(mon) 25
May 6:03
疲れ果ててバス停の横で寝そべっていると、道の向こう側から小生を呼ぶ声が。紅茶を入れたので飲んでいけと言う。旅人が倒れているとでも思ったのであろうか。街道沿いの農家の老夫婦が心配しながら道路を挟んで声をかけて来る。男性のほうが道路を横切ってきた。ポーランド語でまくしたてる。こちらは翻訳機を出して応戦。「紅茶には砂糖を幾つ入れるのか。ミルクはどうか。」という内容のよう。
砂糖は多く欲しい。疲れている身体には甘いものがよいのだ。熱い紅茶が運ばれてきた。感謝感激である。
Świerczyna(シフィエルチナ)、Dłutów(ドウトゥフ)と続き、ここで6kmの森が続く。
森を出てPabianice(パビャニツェ)の町に出た。なかなかの町である。バス通りも立派である。Łodź(ウッチ)からもそう遠くない。ただしバスの行き先は聞いたことがない名前ばかりである。不思議に思っていたら、循環バスで町の中だけの行き先を書いていると男性が説明してくれる。この男性、camino経験者で盛んにŁodź(ウッチ)まで送って行くといって聞かない。歩くのが私の仕事です。と断るのでパンでも買ってこようと。スーパーに走っていった。手にはバナナやコーラーなどを抱えて戻ってきた。メールアドレスのやり取りなどをして別れたが、親切心もいいが、まだ仕事中の合間なのにとこちらが心配になる。その後もこの青年、一緒に撮った写真を送ってくれと、今はどこを歩いているのかと、グダンクス近くまで何度もメールがあった。今はどう過ごしているであろうか。
最近引っ越してきた隣家の犬が県道をさまよっている。それを見かねた隣人がみかねて犬を保護していた。困るのよと。
さて大都市ウッチの10km手前ぐらいから道幅が片道4車線、真ん中をトラムが走る。トラムの上を高速が走るというように典型的な都市型景観。颯爽と歩く都会人にくらべこちらは両側を荷物に挟まれダサイ形の旅人。皆が振り返るのである。これではいけない。もっと颯爽と歩かなければ。そこで前のリュックを片手に持ち颯爽と、あるいは一方だけに肩を通し他方は手を添えるだけにして颯爽と、いかに見ている人に違和感が無いようにするかを考え。無理であった・・笑い出す人さえ。な、なんと無情なのか。半分持ちましょうと言う女性が現れないのかと。
町は今大改造中。トラムを地下にして地上を遊歩道にしたりと、近代都市に生まれ変わろうしている。ここの劇場(Łodź Grand Theatre)でこの9月にダンサーとしてデビューする青年がいる。会えなくて残念であったが。
Łodź(ウッチ)中心街
(mon) 25
May 17:42
Łodź(ウッチ)のアート
(mon) 25
May 20:00
ウッチの教会
Hostelに向かう途中で見た教会が気になりシャワーを浴びてから出かけてみた。Parafia Najświętszego Imienia Jezus(聖イエス教区教会)である。月曜日と言う普通の日であるにも拘わらず5000人くらいが1,2階を埋めている。ミサが始まっているが、信者がどんどん押し寄せてくる。なんの騒ぎだろうか。大合唱はロック調でみんながスイングしている。女性ボーカリストがマイクを持って歌っている。
ミサは7時から9時半まで2時間半という。こんな壮大なミサを経験したことがない。当方は教会印を貰いたいだけなのにミサに最後までは付き合えない。明日の歩行が待ち構えているからである。
控室まで群衆を掻き分けて進んでみた。ミサ中は私語は一切慎まなければならない。ここで例の印籠と巡礼手帳をそっと見せた。一人のシスターが「付いて来なさい。」と目くばせ。脇のドアから外に出た。別棟の事務棟まで進んでいき、事務長のような大きな机の引き出しを開け、印を取りだした。それに何かエンブレムはいらないのかと。yesというとパンフのようなものなどお土産をどっさり。印籠のおかげか。
ウッチのImienia Jezus教会
(mon) 25
May 20:30 ウッチの教会
Parafia Najświętszego Imienia Jezus(聖イエス教区教会)
ホステルはダブルブッキングで、近くのホステルを紹介してもらう。郷土料理の店を紹介してもらって都心へ繰り出した。
20:22